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浦和地方裁判所 昭和62年(行ウ)6号 判決

原告

相川雪子

右訴訟代理人弁護士

遠藤誠

被告

地方公務員災害補償基金埼玉県支部長

畑和

右訴訟代理人弁護士

関口幸男

早川忠孝

右訴訟復代理人弁護士

河野純子

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告が原告に対し、昭和五八年一二月二七日付でした地方公務員災害補償法に基づく公務外災害である旨の認定処分を取り消す。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二  当事者の主張

一  請求原因

1(一)  訴外相川利男(以下「利男」という。)は、埼玉県富士見市立鶴瀬西小学校(以下「本件小学校」という。)の校長であったところ、昭和五七年一月三一日午後五時五六分ころクモ膜下出血、脳室穿破により死亡した。

(二)  原告は、利男の妻であって、同人死亡当時その収入によって生計を維持していた者であるが、昭和五八年二月一二日被告に対し、利男の死亡が公務に起因して発生したものであるとして、地方公務員災害補償法に基づく公務災害認定請求をしたところ、被告は、同年一二月二七日、公務外の災害である旨の認定をした(以下「本件処分」という。)。

(三)  原告は、本件処分を不服として、地方公務員災害補償基金埼玉県支部審査会に対し、昭和五九年二月二四日審査請求したが、昭和六〇年一一月一六日棄却されたため、さらに、地方公務員災害補償基金審査会に対し、昭和六一年一月二五日再審査請求をしたが、昭和六二年六月三日付けで再審査請求を棄却する旨の裁決がなされ、同月二六日その送達を受けた。

2  しかしながら、利男の死亡は、次に述べるとおり、公務に起因して発生したものである。

(一) ミラノ日本人学校長在職中の職務等

(1) 利男は、昭和五三年四月一日から昭和五六年三月三一日までの間、埼玉県富士見市立関沢小学校長の身分のまま、外務省の委嘱を受けて、イタリアのミラノ日本人学校の校長を務めた。

(2) 同校は、在ミラノ日本商社等の子弟のために、昭和五一年に開校され、小学校六学級、中学校三学級の編成で、在校生徒数約一〇〇名の教育機関であり、在ミラノ日本商社等の役職員で構成されるミラノ日本人学校理事会が同校の運営に当たっていた。

(3) 利男が同校に赴任した当時、次のような事情があった。

① 同校は、創立後二年に満たない基礎固めの時期にあったことから、学校運営上の課題が多く、教育内容、教育施設の拡充、教育環境面の整備等に取り組まなければならず、同校を運営する理事会及び現地公的機関との折衝事務に当たり、特に言語、風俗、文化、法制度などすべての面で日本と異なる現地での公的機関との折衝事務の遂行には著しい苦労があった。

② 同校の教員約一一、二名は、大部分が日本各地から派遣された寄合い世帯であり、一部には現地採用教員もいたことから、教員の人事管理に気を遣うことが非常に多かった。

③ 同校の児童・生徒の父兄からの教育に対する期待も高く、夜間、父兄から同校教員の教育方針に対する苦情が自宅に寄せられることが多かった。

④ ミラノは治安が悪く、子供の誘拐事件が多発し、かつ、同校に対する発砲事件、外部からの侵入者による盗難事件も発生したため、児童・生徒の安全について配慮しなければならなかった。

⑤ その他、在外日本人学校である同校への視察者も多く、その対応事務に追われ、また在任中にミラノで開催された在ヨーロッパ日本人学校長会の事務処理もあり、さらに派遣教員の住宅確保などの事務も行わなければならなかった。

(4) その結果、利男には肉体的、精神的疲労が蓄積していった。

(二) 本件小学校長在職中の職務等

(1) 利男は、昭和五六年三月三一日でミラノ日本人学校長の職を終えて同年四月一日帰国し、直ちに本件小学校校長として赴任した。

(2) 利男は、校長として、学校教育の内容に関する事務、教職員の人事管理に関する事務、児童の管理に関する事務、学校の施設・設備の保全に関する事務その他学校運営に関する事務等を行った。

(3) 加えて、本件小学校においては、次のような問題があった。

① 児童の万引等の非行問題が多発し、その対応事務に追われた。

② 埼玉県富士見市内の小学校では、「ランドセルを持たない通学」(以下「教科書常置制度」という。)が実施されてきたが、その是非を巡る問題が発生し、本件小学校のPTAとの間で右問題について話し合いの場を持つなどして、問題の調整に当たった。

③ 昭和五六年一二月から翌昭和五七年一月にかけて、本件小学校では初めての教員の人事異動に関する考課資料の作成に当たった。

④ 本件小学校における身体障害児のための特殊学級を新設するための準備を行った。

⑤ 本件小学校創立二〇周年記念式典の挙行準備及び記念誌発行の準備を行った。

(4) その結果、利男の精神的、肉体的疲労は次第に蓄積されていったが、利男は、午前七時一〇分に自宅を出て出勤し、午後七時ころ帰宅するという毎日で、昭和五六年四月から昭和五七年一月二九日までの間、休んだのはわずか二日である。

(三) 発症当日の状況

利男は、昭和五七年一月二九日、午前八時に出勤し、八時三〇分から同四〇分まで職員朝会を行い、一〇時二五分から同四〇分まで児童に対する授業間観察指導を行い、午後〇時三〇分から校長室において臨時開催された職員研修会の準備打合せに出席した。同研修委員会は、校長、教頭、教務主任及びその他六名の教員で構成され、本件小学校の教員の研修会の運営に当たるものであったが、当時、職員間の反目意識が強く、そのときの議論は難航したため、調整に当たる利男の心労は極限に達した。

その後、利男は、職員室で、教頭とともに昼食を取っていた間の午後一時五分、突然顔色が変り、発汗し、身体が硬直した状態になって、応答もなくなったため、直ちにみずほ台病院に搬送され、手当を受けたが、その二日後に死亡した。

(四) (死亡の業務起因性)

(1) 公務に起因しない基礎疾病、既存疾病が条件ないし原因となって死亡した場合であっても、公務の遂行が基礎、既存疾病を誘発又は急激に増悪させて死亡の時期を早める等、それが基礎、既存疾病と共働原因となって死亡の結果を招いたと認められる場合には、右死亡と公務との因果関係は肯定されるべきである。

また、被災者にとって従事した公務が基礎疾病等を誘発または悪化させるなど、悪影響を与えるもので、従事期間が相当長期にわたる場合には、公務の影響が基礎、既存疾病等と共働して、発症の原因をなしているものと推認するのが相当である。

(2) そうすると、利男は、前述した昭和五三年四月から昭和五六年三月までのミラノ日本人学校長時代及び同年四月からの本件小学校長としての激務による肉体的・精神的疲労が蓄積した結果、クモ膜下出血を誘発して死亡するに至ったのであるから、利男の死亡と公務との間には因果関係があるというべきである。

3  したがって、公務外である旨の認定をした本件処分は違法であるから、原告は被告に対し、その取消しを求める。

二  請求原因に対する認否と主張

A  認否

1 請求原因1の事実は認める。

2 同2の冒頭の主張は争う。(一)の事実のうち、(1)、(2)は認め、(3)、(4)は不知。(二)の事実のうち、(1)、(2)は認め、(3)は否認し、(4)は不知。(三)の事実中、利男の死亡日時及び死因は認めるが、その余は不知。(四)の主張は争う。

3 同3の主張は争う。

B  主張

1 被告は、利男の死亡が公務に起因するとは認められないとして、本件処分をなしたものであるが、その手続及び判断に誤りはない。

2 公務起因性について

(一) 在職中の公務員の疾病に起因する死亡が公務災害と認められるためには、当該疾病と公務との間に相当因果関係が存すると認められることが必要であるところ、右相当因果関係が認められるためには、死亡の直近もしくは一週間程度前の状況において、いわば公務の犠牲となったと見うるような、特に過激または過度の興奮をせしめるような公務に従事したような場合でなければならないというべきである。

(二) 利男のミラノ日本人学校における業務とクモ膜下出血の発症

利男がミラノ日本人学校校長の職に従事していたのは、昭和五三年四月から昭和五六年三月までで、本件クモ膜下出血が発症する三年ないし、一〇か月も前のことである。このような場合、時間的経過の観点から、右ミラノ日本人学校での公務をもって、クモ膜下出血の原因と見たり、それによってクモ膜下出血が誘因されたと見ることは相当でない。

(三) 利男の本件小学校における勤務状況等について

(1) 利男は、自家用車で通勤し、特に午前八時前に本件小学校に出勤することもなく、残業のために校内に残っているようなこともなかった。また、利男は、出勤後毎朝八時一〇分から一〇分程度職員打合せ会を行い、その後は、校長室で日常の事務を処理していた。前任者の校長の方針をそのまま引き継いだので、教頭以下他の職員との間で特に問題となるような事態はなかった。出張は比較的多くあったが、市内や県庁で開催される会議への出席が殆どであり、遠方への出張はなかった。夏休み及び冬休みにも毎日学校へ出勤するというものでなく、出勤しても二ないし三時間程度で退校していた。

(2) 教科書常置制度の当否の問題は昭和四八年ころから存し、利男が校長になってから特に問題になったというものではない。また、PTAからこのことを問題にされたこともなく、職員会議において二、三度議題になったことはあるが、格別この問題について議論になったようなことはない。

(3) 児童の非行問題については、年に一度くらい発生するのみで、利男在職中にとりたてて重大な事件が発生したことはない。

(4) 本件小学校の二〇周年事業は、利男死亡後の昭和五七年一〇月に記念式典が行われたのであり、利男が校長であったときには、記念誌発行の下準備のための編集委員会が何度か開催された程度である。

(5) 障害児のための特殊学級の新設準備については、当時学区内の身体障害児の父兄から設置の要望が出されたのを機に、職員会議において検討されるようになっていたが、特に反対もなく、徐々に準備がなされていくことになっており、格別問題となるようなことではなかった。

(6) 利男は人格円満で、職員にもPTAにも評判がよく、何か問題があって職員またはPTAとの間に対立が生じたこともなかった。

右のように、利男の本件小学校における公務が特に激務ということはない。

(三) クモ膜下出血について

(1) 利男の死因はクモ膜下出血、脳室穿破であるところ、右死因から通常考えられることは、脳動脈瘤が前交通動脈に存し、これが破れたということである。クモ膜下出血を引き起こした原因疾患としては、脳動脈瘤、脳動静脈奇形、脳腫瘍、血液疾患等が考えられるが、このうち、原因の八割を脳動脈瘤が、一割を脳動静脈奇形が占めている。

(2) 右脳動脈瘤の大部分は、脳の動脈分岐部の中膜、内弾性板欠損を基盤とし、これに血圧その他の後天的要素が加味されて生じる先天性動脈瘤である。その外に、外傷や細菌性塞栓によるものもあるが極めて稀である。これらの先天性動脈瘤は、ウィリス動脈輪、またはそれに近い脳主幹動脈に生じ、大きさは大豆大くらいのものが大部分であり、その発生部位や大きさから、脳動脈瘤の圧迫による神経症状を起こすことは稀で、破裂してもクモ膜下出血を起こしてはじめて脳動脈瘤の存在が気付かれることが多い。

(3) また、脳動脈奇形は、胎生時血管発生の際に何らかの障害によって脳のある部分で毛細管が形成されず、動脈と静脈が未分化の血管によって短絡されると、その部分の脳は当然循環障害を起こし、さらに生後年を経るに従って動脈硬化のために静脈が拡張緊張する。これが、脳動脈奇形で、肉眼的には血管塊としてみられる。脳動脈奇形を構成する異常血管は、破綻し易く、しばしばクモ膜下または脳内に出血する。

(4) 利男の場合は、脳動脈瘤が前交通動脈にあったものと考えられ、結局本人の生活状況、生理的要因によるものである。

したがって、利男の死亡を公務上と認めなかった本件処分に誤りはなく、本件処分は適法である。

三  被告の主張(二のB)に対する原告の認否

1  被告の主張のうち1、2の(一)、(二)の主張は争う。

2  同(三)の(1)の事実のうち、自家用車で通勤していたこと、毎朝職員打ち合せ会を行っていたこと、出張が多くあったこと、夏休み及び冬休みにも二ないし三時間ほど出勤していたことは認め、その余の事実は否認する。同(2)、(3)の事実は否認し、同(4)の事実のうち、二〇周年事業は昭和五七年一〇月に記念式典が行われたことは認め、その余の事実は否認し、同(5)の事実のうち、障害児のための特殊学級の新設について学区内の障害児の父兄から要望が出されたことは認め、その余の事実は否認し、同(6)の事実のうち、利男が人格円満で、職員にもPTAにも評判がよかったことは認め、その余の事実は否認する。

3  同(三)の事実は不知。

第三  証拠関係〈省略〉

理由

一請求原因1の各事実は当事者間に争いがない。

二そこで、請求原因2(利男の死亡の公務起因性の存在)について検討する。

1 地方公務員災害補償法三一条に定める「職員が公務上死亡した場合」とは、職員が公務に基づく負傷又は疾病に起因して死亡した場合をいい、公務と右負傷又は疾病との間に相当因果関係のあることが必要であり、その負傷又は疾病が原因となって死亡事故が発生した場合でなければならず、単に右職員が公務の遂行時またはその機会に死亡したような場合を含まれないものと解するのが相当である。

そして、右死亡が公務の遂行を唯一の原因とする場合に限らず、被災職員の基礎、既存疾病が条件ないし原因となって死亡した場合であっても、公務の遂行が基礎、既存疾病と共働原因となって死亡の結果を招いたと認められる場合には、右死亡と公務との相当因果関係が肯定され、公務上の死亡と認められるものと解するのが相当である。

もっとも、公務及びその遂行はそれ自体常に精神的、肉体的な緊張や負担を伴うものであるから、公務の遂行が基礎、既存疾病と共働原因となったとして相当因果関係が肯定されるためには、過度の精神的、肉体的緊張又は負担を来す公務ないしはその遂行をしたことを要するというべきである。

2  そこで、利男の死亡前の職務の内容、公務の遂行状況(勤務状況)、健康状態等について検討する。

(一)  利男の経歴

利男が昭和五三年四月一日から昭和五六年三月三一日までの間、埼玉県富士見市立関沢小学校長としての身分のまま外務省の委嘱を受けてイタリヤのミラノ日本人学校の校長を務めたこと、同年四月一日に帰国し、直ちに本件小学校の校長として赴任したことは当事者間に争いがない。そして、乙第一二号証によると、利男は、大正一五年九月一九日生れ(死亡当時五五歳)で、教員生活に入ったのは昭和二二年四月であり、その後昭和二四年から二五年にかけて、一年間早稲田大学に在籍していたことがあるほか、昭和五一年三月末までの約二八年間、埼玉県内の公立小、中学校の教諭を務めたこと及び同年四月一日から埼玉県富士見市立関沢小学校校長に補されたことが認められる。

(二)  ミラノ日本人学校長在職中の職務内容及び勤務状況

〈証拠〉によれば、次の事実が認められる。

(1) ミラノ日本人学校は、在ミラノの商社などの企業及び外交官等の子女教育のために昭和五一年七月に開校され、小学部六学級、中学部三学級が設けられ(これらの事実は当事者間に争いがない。)、日本各地の学校から日本政府によって派遣された教諭約一〇名、現地採用教員二名、事務職員二名がその教育及び管理等に当たっていた。

(2) 同校の運営は、在ミラノの商社等の支店長クラスの社員及び在ミラノ日本国総領事館の高官で構成される学校運営委員会理事会が当たることになっている(この事実は当事者間に争いがない。)が、現実には校長がその運営に当たらなければならなかった。

(3) 同校は、利男が赴任した昭和五三年当時、創立からわずか二年しか経ていないいわば基礎固めの時期にあったことから、教育内容及び環境を充実するために諸施設の拡充と教材の整備などに取り組まなければならない状況にあった。

(4) そして、日本国内の公立学校長であれば行わないところの、教員の赴任、帰国、私的な旅行などに関する総領事館との折衝事務、右学校運営理事会との折衝事務、現地の学校との交歓会などに関する折衝事務、現地公的機関との折衝事務などを行わなければならず、特に言語、風俗、文化、法律制度等の異なる異国の地での現地の学校及び公的機関との折衝事務には苦労が多かった。

(5) また、学校運営上、派遣教員と現地採用教員との間の確執など人事管理上の気苦労もあり、父兄の転勤に伴う児童・生徒の出入り、派遣教諭の交替及び理事会のメンバーの交替など人の流動が激しいことから、円滑な運営のためには細かな神経を配らなければならない状況にあった。

(6) しかも、子供の誘拐事件や同校に対する発砲事件、外部からの侵入者による盗難事件が発生するなどしたため、登校下校時の校門での出迎え見送り、戸締りに対する警戒など児童・生徒の安全について配慮する必要があった。

(7) その他、在外日本人学校である同校への日本国内や現地の教育関係者などによる視察も多く、視察者への対応事務もあり、また昭和五五年九月ころにミラノで開催された在ヨーロッパ日本人学校長会の事務処理もあった。さらに、新規に派遣される教員の住宅確保など本来の職務から外れるようなことも行わなければならない状況にあった。

(8) 同校の児童・生徒の父兄は一般に高学歴者であって同校の教育に対する期待度も高く、夜間、父兄から同校教員の教育方針に対する要望が自宅に寄せられることがしばしばあった。

(9) しかし反面、同校には、日本国内の学校で生じるようないわゆる非行問題などはなく、理事会も年七ないし八回程度開催されるだけであって、日本国内で行うような行事も少なく、平素観光地を巡ったり、夏休みには一〇日間ほどのバカンスをとる余裕もあった。同校の勤務日は土曜、日曜が休みの週五日制、勤務時間は午前八時三〇分から午後五時まで、春休み及び冬休みはそれぞれ約二週間、夏休みは約四〇日間であり、利男の自宅は学校から約三〇〇ないし五〇〇メートル離れた場所にあって、徒歩で通勤しており、平素午前八時ころ登校し、多くは午後七時ころ退校していた。

(三)  本件小学校における職務内容等

〈証拠〉を総合すれば、次の事実が認められる。

(1) 小学校長の職務は、「校務をつかさどり、所属職員を監督する」(学校教育法二八条三項)にあり、教育が児童に対し滞りなく行き渡るように、計画に従って教育が行われているか教員を指導しながら監督すること並びに教職員の管理、施設、設備の管理、教育委員会及びPTAなど教育関係諸団体並びに地域との連絡、調整等である。

(2) 右のような通常の職務のほか、利男が取り組まなければならない事項には、次のようなものがあった。

(イ) 富士見市内の小学校で昭和四四年四月から実施していた教科書常置制度について、昭和五三年ころから父兄の一部で不満や不安が高まり、同市市議会に制度の中止を求める請願が出されていたところ、昭和五六年一二月ころ、同市議会で採択され、新聞等の報道機関でも大きく取り上げられた。利男は、富士見市教育振興協議会の委員として、西宮市の視察をして実態報告をしたり、本件小学校のPTAとの間で右問題について話合いをしたり、当時本件小学校に予定されていたテレビ取材の折衝事務に携わるなどし、また、内部的には、職員に対するアンケートの実施をするなどした。ただし、本件小学校において、教職員の意見が対立したり、PTAで意見調整に苦慮するような事態にはならなかった。

(ロ) 昭和五六年一二月から昭和五七年一月にかけて、教員の人事異動に関する考課資料の作成事務があり、利男としては本件小学校で初めての人事異動であった。しかし、同校における教職員の人間関係は円滑に行われていて、特に人事異動で苦慮しなければならない問題はなかった。

(ハ) 本件小学校の学区内の身体障害児の父兄から特殊学級新設の要望が出された(この事実は当事者間に争いがない。)ことから、右要望に応えるべく準備をし、県外の養護学校二校の視察を行うなどしていた。なお、昭和五七年四月一日から本件小学校に特殊学級が設けられた。

(ニ) 創立二〇周年記念事業の内容としての式典、記念誌発行などの企画、特別委員会の組織作り、その資料集めのための廃品回収の計画や実施に当たり、自ら廃品回収に参加した。

(ホ) 昭和五七年一月二五日ころ、児童の万引事件が発生し、利男は善後措置を講じているが、その具体的内容は明らかでない。

(四)  本件小学校における勤務状況

〈証拠〉を総合すれば、次の事実が認められる。

(1) 利男が本件小学校に赴任してからの出勤日数、休暇日数、出張回数は、別紙出勤日数等一覧表記載のとおりである。

(2) 右出張は、富士見市校長会、入間地区の校長会、埼玉県の校長会の研修会や会議、PTAとの会合、教育委員会との協議など、富士見市内及び埼玉県下が多く、県外に出る出張は比較的少なかった。また、出張は勤務時間内に行われ、勤務時間外に及ぶことはなかったし、出張が日曜日にかかる場合も存するが、そのときには翌日に振替休日をとっており、休日がないまま連日出勤していたようなことはない。

(3) 勤務時間は午前八時三〇分から午後五時一五分までであるが、午後四時三〇分になると適宜退出することができるところ、利男は、通常午前七時一〇分ころ自家用車で自宅を出て同八時ころ出勤し、午後五時ころには退校し、早いときには午後六時三〇分ころ、多くは午後七時ころに帰宅し、夕食後、午後一一時ころまで学校の仕事をすることもあった。

(4) 夏期休暇及び冬季休暇にも、数時間出勤し、校舎の施設、設備に支障がないか、児童、保護者、職員、教育委員会、関係団体や機関などからの連絡、照会の有無などの確認等をしていた。

(五)  発症当日の状況

〈証拠〉によれば、次の事実が認められる。

(1) 利男は、昭和五七年一月二九日、いつものように午前八時ころ出勤し、同八時三〇分ころまで校務についての企画及び準備をした後、同八時四〇分まで職員朝会などを行い、同八時四五分から一〇時二五分まで校長室で執務し、同一〇時二五分から一〇時四〇分まで業間体育(休み時間に全校生徒が校庭に出てなわとびをした。)観察指導を行い、同一〇時四五分から午後一二時二〇分まで校長室において執務し、午後一二時三〇分ころから校長室で開催された研修委員会に出席した。

(2) 右研修委員会は、校長、教頭、教務主任及び各学年主任教員で構成され、本件小学校における教員の定例研修会の運営に当たるものであって、当日は次回研修会の準備打合せが行われたが、特に激論が交わされたようなことはなかった。

(3) 利男は、右研修委員会を退席した後、職員室において、荒井教頭とともに、普段と変った様子もなく、昼食をとっていたところ、突然、午後一時五分ころ、顔色が青ざめ、嘔吐し、身体が硬直し、応答もしない状態となり、直ちに救急車で病院に収容された。

(六)  健康状態など

〈証拠〉によれば、次の事実が認められる。

(1) 定期健康診断の結果は、別紙定期健康診断結果一覧表記載のとおりである。ただし、ミラノ日本人学校在職当時の資料は存しない。

(2) 利男は、昭和五六年一一月ころ、一日人間ドックの受診を申込み、昭和五七年二月二四日に受診する予定になっていた。また、同年一月二七、八両日は荒井教頭が休暇を取っていて、利男は原告に対し、疲れてしまう、とこぼしていた。

(3) 利男の死因は、クモ膜下出血、脳室穿破であるところ、その出血源は確定されていないが、前交通動脈瘤の破裂によるものと推定されている。

3  以上の事実に基づいて、利男の死亡の公務起因性について判断する。

(一) 利男は、前記のとおり脳の動脈瘤破裂によってクモ膜下出血の発症に至ったものと推定されるところ、定期検診の結果、血圧がやや高いという程度であり、発症の前日ないし前々日に妻に対して疲れていたとこぼしていた事実のあったことが認められるものの、医師の診断を経ていないので、それが特に医学上留意すべき所見であったとまでは認められない。したがって利男は、通常の勤務をしていた中で、特段の前駆動症状もなく突然に発症したものであるといわざるを得ず、発症の直前又はその数週間の期間をとってみても、利男の職務内容が過度の肉体的、精神的緊張又は負担を伴うものであったとは認められない。

(二) 原告は、本件小学校における激務により肉体的、精神的疲労が蓄積した結果であると主張する。たしかに利男は、懸案事項であった教科書常置問題や、特殊学級新設の準備、創立二〇周年記念事業などに対して校長として真摯に取り組んでいたことは認められるものの、右職務内容は、勤務時間、出張、休暇等の事情を総合勘案するならば、小学校の校長として通常予想される職務に対比して、過度に肉体的、精神的緊張又は負担を伴うものであったとまでは認められない。

(三) また、原告は、ミラノ日本人学校長在職中の激務を主張する。なるほど、言語、風俗、文化等が異なる外国で、創立後二年に満たない同校を運営することは、日本国内での学校運営とは異なった苦労が伴い、それによって肉体的、精神的な疲労が生じたことは推認するに難くない。しかしながら、利男が、同校の校長として在職したのは、クモ膜下出血発症の一〇か月ないし三年一〇か月も前の期間であって、しかも利男は、ミラノに赴任する直前の二年間は校長として、さらにそれ以前の約二八年間は教員としての経験を有していたのであるから、学校運営自体については通暁し、また日常生活の面においても次第に順応してきたものと推認され、帰国後は再び校長職に戻ったのである。そうすると、帰国して一〇か月後まで外国生活の疲労が蓄積して回復せず、それが発症の原因となったとは考えにくく、一〇か月の時間的間隔をもって発症したことが医学上も妥当なものとして肯定できるとする証拠もない。

(四) そして、以上のミラノ日本人学校及び本件小学校の校長としての職務内容及びその遂行状況等を総合しても、これに従事していたこととクモ膜下出血の発症が全く関係がないとまでは断定できないにしても、それが発症との因果関係の相当性を肯定できるほど過度のものであったとまでは認められない。

4  そうすると、利男の死亡と公務との間には相当因果関係が認められず、本件疾病が公務外であると認定した本件処分は相当であって、本件処分には原告主張の違法はない。

三結論

以上の次第で、本訴請求は理由がないから、これを棄却することとし、訴訟費用につき、行訴法七条、民訴法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官原健三郎 裁判官伊東正彦 裁判官稲元富保)

別紙〈省略〉

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